これまでのトレーナー人生
自分の怪我からはじまる!!
インターネットがない時代(1980年代後半)トレーナーという存在はほとんど知られていませんでした。
私がその存在を知ったのは、自分が怪我したことがきっかけとなります。
学校の体育の授業(高2:バスケットボールの試合中)でジャンプシュートをした後、着地の際に友達の足の上に乗り、ひどい捻挫をしました。自分の感覚的にもゴキゴキっと内外に捻ったのを記憶しています。
時間が経てば経つほど足はどんどん腫れていき。気がついた時には足首に野球のボールがくっついているくらい腫れていました。怪我後は、直ぐに保健室で足を冷やし。病院へ行きました。この時の診断は、骨折はないが、重度の捻挫(足首にある3本の靭帯を全て切ってしまう完全断裂)でした。
その後は、ギプスで固定され松葉杖で生活を送る状態(修学旅行は足はギブスで松葉杖)
当時部活のキャプテンをしていた私は早く復帰したいいう思いもあり、このギブスが取れたら直ぐに部活はできるものだと思っていました。
ギブスで固定(完全固定)されている時から、徐々にギブスを半分に切ってお風呂に入れるようになりました。この時から足を動かしていくリハビリが始まりました。
しかし、足首は全然動かない。
しかも。。。腫れはまだまだ残ったままで内出血がひどい状態でした。
今でもよく覚えていますが、足は象のように腫れたまま
動きたくても痛いし、曲がらない状態。
当然、走ることも階段を駆け上がることもできない。
普通に歩くこともできない状態でした。
今思い返すと、当時のリハビリ指導は、ほとんどなく(記憶がない笑)
医師から足首を動かしたり歩いてください。くらいしか記憶にありません。
ここからが運命の出会いとなります。
運命の出会い
正直、部活に戻れる感じが全くしなかった。
困った私は、部活の顧問の先生に相談しました。
ここが大きなターニングポイントなったと思います。
偶然にも顧問の先生が通っていた治療院がありました。
たまたまだったのか、その治療院は先生も行き始めたばかりのところ。
しかし、スポーツ選手らが通っている治療院ということを聞き。直ぐに紹介して行くことになりました。
のちに知ることになったのですが
当時では数少ないスポーツ選手をたくさん診ている有名な治療院だったのです。
今では当たり前となったアスリートへの治療(積極的に回復を促すアプローチ)。
スポーツマッサージを得意とする治療院でした。
そして、偶然にも担当してくれた先生との出会いが ”トレーナー” という存在を知るキッカケとなりました。
実は、この担当してくれた方のお父さんがプロ野球チームのトレーナーだったんです!!
情報がアナログだった時代
現代のようにインターネットで検索すれば、何でも情報が瞬時に見れる時代ではなかった。
コレが今と30年前の大きな違い。
もちろんスポーツ医学の発展も今の方が遥かに進化していてます。
私は自分の怪我を治すことがきっかけで鍼やマッサージ治療に出会い。
担当してくれた先生からアスリートらへの治療エピソードを聞いて、徐々にトレーナーという存在を知り、興味をもち始めました。
そして、ある時から、
『自分はコレをやりたい!!』と思うようになりました。
そして、自分が競技に復帰するころには、
治療ができるようになりたい。
怪我をした選手を自分で治療してサポートしたいと思うようになりました。
夢
そして、『いつの日か、日本を代表する選手たち一緒に日の丸をつけて世界の舞台で戦いたい!!』
という夢を持つようになっていました。
でも、どうすればいいか・・・
このインターネットが無い時代。
完全に手探り状態だったのを覚えています。
人生を変えるチャンスが訪れる
私は、高校から先の進学を考えていたときは、治療ができるようになるには、専門学校に進学するか大学(鍼灸学校)に行くかを考えていました。
進学先については、体育教諭でもあった顧問の先生にも相談しており色々アドバイスをいただきました。
もちろん治療をしてもらっていた先生にも進路相談もしていました。
最終的な決め手は、
専門学校(鍼灸マッサージ)に行くのは社会人になっても行くことはできる。それなら今後トレーナーという仕事をするにも自分がいろんな競技を知る(体験、理解する)ことが後々プラスになることが多いんじゃないか!と。
この一言が、その後大きな出会いと私の原点となりました。
最終的に大学への進学を決意し受験。
日本体育大学へ進学(現役合格)することになりました。
そして、専門学校は大学に入ってから通いたいと家族でも話し合い大学生活が始まりました。
大学での出会い
体育大学に進学したとはいえ部活(学友会、サークル)はたくさんあります。
もともとスポーツをすることが好きだった私は、何か競技をやってみたい気持ちがありました。
しかし、入学後、同級生らと仲良くなって話を聞くと部活に入っている殆どの選手が高校時代に全国大会で上位に入る超ハイレベルな選手たちばかり。在学生でも世界大会やオリンピックに出場する選手がいる部活ばかりでした。
同級生でも○○競技でインターハイチャンピオンやインターハイ出場選経験がある選手がたくさんいました。
私はそのレベルではないし、この大学で競技をするのは万年補欠になるのは確実。レギュラーを取るのは厳しいなと肌感覚で感じ取りました。
そこで出会ったのがトレーナー研究会(前身はテーピング研究会)というサークル。
サークルという扱いだったが一般的な学友会の部活とほぼ同じような組織でした。
この部活、実は山本郁栄先生(日本体育大学スポーツ医学研究室名誉教授。レスリング ミュンヘンオリンピック出場)が顧問であり、学内の体育会競技選手らへのテーピングサポートやレスリングや柔道の大会などで救護活動などをしているクラブということを知り入部することを決めました。
テーピングとの出会い
当時、日本でアスレチッックトレーナーの公認資格もなく。学べる環境はありませんでした。
トレーナーのことを勉強をするには、学校の図書館でスポーツ医学関係の本を読むか、医学書を買って怪我のこと。身体のことを学ぶしかありませんでした。それでも日本体育大学に進学したお陰で、図書館にはたくさんのスポーツ関連、スポーツ医学、ジャーナルなどが保管されており、それを読み漁っていました。
それ以外だと、現役のトレーナーの方々がやってくれる勉強会(講習会)に参加させてもらう。
正直、今とは比べ物にならないほど、ごくわずかな機会しかありませんでした。
学生同士で行う部内での勉強会などで、症例や怪我についてわからないことは調べることをしていました。
実際、今のような選手をサポートするような活動はなかなかありませんでした。
できるとしたら誰か知り合いを通じてスポーツ現場に足を運んでみる。これぐらいしかありませんでした。
そんなことを想いながら大学生活が過ぎていきました。
そして、大学2年時の秋頃、夢に向かって大きく前進する出会いがありました。
それは、同級生の友人を通じて紹介してもらった社会人アメリカンフットボールチーム(レナウンローバーズ)でのトレーナー活動の話。
入学当初よりトレーナー研究会に所属する先輩らから、怪我の多い競技(コンタクトスポーツ)を経験しておくことがいいと勧められていたのが心に残っていました。
友人からの話は、一晩考えて翌日には参加したいから繋いで欲しいをお願いしました。
この当時、社会人のアメリカンフットボールは、今とは違ってチームの運営は、銀行や大手アパレル企業などがスポンサーになりチームを支えていました。
現在のクラブ運営とはまったく違うサポート体制。
当時は、プロのトレーナーがチームを支えているところはかなり少なかったこともあり、学生の身でありながらも色々なことを経験させて頂くことができました。
ここでは、サークル(部活)の先輩方から教えて貰ったテーピングを実際に選手たちに巻くことをさせて貰っていました。そして、怪我予防を考慮したウォーミングアッププログラムの作成から実施。
怪我や痛くて練習ができない選手らへのリハビリもさせてもらいました。
とはいえ、手解きをしてもらえる先輩も殆どいない環境だったので学生同士で考えてメニューを作成して実施したり、選手からのフィードバックを貰いながら試行錯誤の日々でした。
日本のスポーツ医学は発展途上の真っ只中だった
当時(80年代後半〜90年代)日本では、まだスポーツ医学もアスレティックトレーナーの役割も始まったばかり。
アメリカでトレーナーの勉強をして帰国した人が僅かに数人いた程度。
あとは、みんな議論しながら選手のために何ができるのか。
どうやったらいいサポートができるのか。
スポーツ整形の医師らにも協力してもらいながら活動していたように思います。
正直、アスレティックトレーナーのことを調べたくても本物のトレーナー像を知っている人が殆どいません。
偶然、私が行き始めたアメフトチームのトレーナーの方を通して知り合った方。
大学を卒業しアメリカに渡り、トレーナーの資格(NATA-ATC)を取り、帰国した方がいたお陰で、勉強会を開いていただいてそれに参加させて頂きました。
その後、陸上競技連盟が主体となって運営している陸連トレーナー部が発足。ここに私も参加することになりました。
大学時代は陸上部所属ではなかった為、陸上競技選手と接することはありませんでしたが、インターハイや日本選手権、国内での国際大会などで救護活動やトレーナーステーション(選手のケア)への参加をしていき選手との接点が増えトレーナー見習いとしての活動が始まりました。
当時(1990年代)スポーツ現場で活躍しているトレーナー(当時はスポーツメーカーにトレーナーが数名だけ所属していました)は、みんな治療の資格(鍼灸やマッサージ師)を持っていました。
『トレーナーという仕事を自分もしたいがどうしたらいいのか?』
怪我をしたり、痛みを訴える選手の役に立ちたい。怪我を治したり、痛みを治す治療がしたい!
これは、元々興味があった為、いずれどこかのタイミングで鍼灸の専門学校に通って国家資格を取りたいと大学を入学した時から考えていました。
しかし、本当にそれでトレーナーになれるのか?
そんな素朴な疑問を持ち悩んでいました。
活動を継続することで仲間も増え、徐々に選手とのやりとりに ”楽しさ” と ”やりがい” を感じるようになりました。
もちろん、この陸上競技のトレーナー活動と並行してアメフトチームでの活動は年間を通して続けていましたが、それぞれの競技特性が全く違う為、活動の主眼となる役割も違っていたのでどちらも楽しかったのを今でも思い出します。
次の波がやってくる
日本では、職業(専業のプロ)としてトレーナー活動を進めていた陸上競技関係のトレーナーの方々が数名いました(所属はスポーツメーカーの販促活動の一環として所属していました:ミズノ、アシックス、ゴールドウィン、ナイキなど)。この方々が学生や実業団所属選手:をスポーツメーカーとして選手サポートの一環として、それぞれの選手や学校をサポートしていました。
その流れから徐々にその方々が有志で集まり、大会会場で一緒に大会をサポートするようになっていきました。
これが日本陸上競技連盟に医事部トレーナー部の発足のきっかけであり、日本で初めて組織的なトレーナーの団体ができました。
そして、学生らも学べる環境のひとつとして、陸連トレーナー部が主催して、トレーナーセミナーを開催してくれるようになり、現在に至ります。
私もこのセミナーには、発足翌年となる1993年に参加し陸上競技に関わる機会を得ました。
陸上競技の活動の場が増えていく
鍼灸マッサージの資格を取得した後、26歳の時にチャンスがやってきました。
それは、日本陸連が主催の強化合宿(国内のトップ選手だけが招集される合宿)にトレーナーして帯同する機会をいただきました。
まず私は、ハードルの選手(男子110m、女子100mハードル、男女400mハードル)だけが集まる国内合宿に帯同させていただける機会を頂きました。
ここで始めて陸上競技の奥の深さを知ることになりました。
大学在籍時には陸上部との接点はなかったので選手が何を要望し、どんなことがトレーナーしてできればいいのか。これがまだピンときていませんでした。
アメフト(コンタクトスポーツ)の場合は、怪我が起きた時の対応や怪我予防(テーピングやウォーミングアップ)、怪我からの復帰(リハビリ)やちょっとした痛みの治療などをしていましたが、どうやって動くと良いか。どうやって力を発揮する。などの視点では全然見れていませんでした。
10年の時を経て
1998年に開催された、『バンコクアジア大会』
陸上競技 日本代表チーム帯同トレーナーとして参加。
参加選手は、男子35 女子29 計64名
トレーナーは、2名
このうちの1人。
トレーナーになりたいと想うきっかとなった大きな怪我(足首の捻挫)からちょうど10年。
当時、お世話になった治療院の先生から聞いた『スポーツ選手をサポートするトレーナー』という存在。
そして、その後思い描いた日本代表チームのトレーナー。
選手の役に立つことがしたいという想いから始まったトレーナーへの道。
10年の時を経て、夢が叶う時がきました。
夢が叶った日本代表
アジア大会に参加する直前の合宿。
現地での活動。全て無我夢中で活動していました。
実は、今でもその大会での記憶は途切れ途切れとなっています。しかし、あの時一緒に現地入りした選手達から多くの刺激と課題をもらい。自分の未熟な部分と何とかして役に立ちたいという想いはさらに強いものになったのを今でも思い出します。
そして、その後も強化合宿などに何度も何度も参加させて貰いました。
一度経験した日本代表チームのトレーナー(1998年バンコクアジア大会)
しかし、翌年(1999年)に開催された世界選手権(全世界から集まる世界陸上)では、声は掛からず、帯同させてもらうことはできませんでした。
現実は厳しいもの。
簡単には、世界大会にはいけないんだなと思いました。
しかし、その反面、
今度は、世界陸上やオリンピックに行ってみたい!!と思うようになりました。
一念発起して海外留学(28歳)
今後、自分の活動の幅を広げるには英語が喋れた方が良い。
当時28歳。既に治療院で仕事をしながら陸上やアメフトのトレーナー活動をしていましたが、正直まとまったお金をいただけるプロのトレーナーでは全くありませんでした。
26歳の時にアジア大会(陸上:日本代表チームトレーナーを経験)に帯同させてもらったが、翌年の世界陸上では代表トレーナーとして招集はかかりませんでした。そうなる自然と2000年開催のシドニーオリンピックには代表トレーナーしては行けないだろうと想い、今後を見据えて語学留学を目的としたアメリカ行きを決断しました。
ご縁に感謝
この時も友人に助けられ運命的な経験をすることになりました。
それは、単純に語学留学(3ヶ月くらい)のつもりで計画をしていた私ですが、ちょうど渡米を決めて行き先をどこにするか考えていた時、偶然にもアメリカでトレーナーの資格を取った友人に出会い相談する機会に恵まれました。
そこで、その友人からの提案されたことがありました。
それは、
自分が卒業した大学(語学学校併設)を紹介するというものでした。しかも、さら凄いことは、この語学留学しながらトレーナー活動も経験させてもらえるかもしれないという話だったんです。
正直、英語は自信は全くないし、しゃべると言えるレベルではありませんでした。
それでも、即答でお願いしました。
通常、アメリカでトレーナーの勉強をしようとすると大学か大学院に入学して専門的な勉強(プログラムに参加)をしなくてはいけません。しかも、トレーナーのプログラムを受けるにも学内でのセレクション(アメリカ人と同じ条件でセレクション)が行われ、限られた人数しか在籍することができないプログラムとなっています。
貴重な経験の数々
私自身は、語学を学ぶ、異文化に触れることに主眼をおいて留学を考えていたので大学への留学は考えていませんでした。しかし、友人に相談したことがキッカケで当時大学で働くヘッドトレーナーに相談してくれ私はトレーナールーム(現地ではトレーニングルーム:athletic trainingroom)に出入りをさせて頂けるという許可を頂きました。
これは今では絶対に考えられないことなのですが当時は許していただけたようです。おそらく他の学校では無理だったかもしれませんが。。。友人を通してとても貴重な経験をスポーツの本場アメリカでトレーナー研修ができたのはその後のトレーナー活動に自信と可能性を想像する力を養うことになりました。
シーズンを通してアメリカンフットボールチームの練習(朝練習含む)、夏の合宿(summer camp)、試合(ホーム、アウェイ)全試合に帯同させてもらえました。
日本では経験できないことも
一番貴重な経験だったのは、日本では実施されない救急時の対応シュミレーション。
もし、重大な事故が起きた場合の対応を、関わる者全員がシュミレーションをおこないました。
この時、一番驚いたのは、本物の警察官(パトカー)と救急(地方の郊外の学校だった為、救急搬送の方法は救急車だけでなく救急ヘリの出動もある環境)その救急ヘリを実際に飛ばして行われたシュミレーション。
これには驚きました。
語学学校だけに通う日々だけでなく、こういった経験は想像もしていなかったことでした。
ワンシーズン通して活動
ホームとアウエイを繰り返すアメフトの試合(12試合)カリキュラムを受けている学生トレーナーであればと帯同する経験を私はさせていただけた。流れに任せただけではあるが通常ではありえない経験でした。
シーズンが終わった後は、今度は仲間を通じて知り合った日本人トレーナーがいるナイアガラ大学へ。
ここでは、男子のアイスホッケーチームをサポートしていたので日々の練習に同行させてもらいました。
そして、試合にも帯同させていただきました。
NATA-ATCの道
私は取得していませんが、NATA-ATCの取得するには3つの条件が必要となります。
①アスレティックトレーニング教育認定委員会(CAATE)公認の4年制大学を卒業する(もしくは、大学院のアスレティックトレーナープログラムを卒業する)
②所定のインターンシップの単位を履修する。(勉強時間は、卒業までに 700〜800時間必要とも)
③大学(大学院)を卒業後に、BOC (資格認定委員会:Board of Certification)の開催する認定試験(certification exam)に合格しなくていけません。
認定試験では、5つの領域に関するテストが行われ、それぞれに必要条件を満たしているか評価されます。
⑴傷害・疾病の予防と健康維持
⑵臨床評価とその診断方法
⑶応急処置と救急処置
⑷治療的な介入の手順
⑸医療管理と職務上の責任について
NATA-ATC(公認アスレティックトレーナー)は、アメリカ医学界(AMA)によって准医療従事者として認定され、国家資格保有となり、日本のスポーツ協会公認アスレティックトレーナー(JSPO-AT)とは大きく異なります。
シドニーオリンピックには行けなかったが、約1年間の渡米生活は想像してよりも貴重な人生経験となりました。
出会った友人や選手、コーチ、ヘッドトレーナーには言葉では言い表せないほど感謝しています。
日常の生活では、語学学校の友人や現地の学生にもたくさん助けてもらい何とか、日々の生活を過ごしていたのは言うまでもありません。
プロのトレーナーとなる。
帰国後の2001年からスポーツメーカーのミズノ株式会社で専属トレーナーとして契約することができました。
本格的にプロのトレーナーとして活動が始まったのは、この時から(当時30歳)
これも絶妙なタイミングでした。
帰国後、職場に空きがでたということで所属するトレーナーの方から声をかけて頂きました。
ミズノ(株)には、陸上部(ミズノトラッククラブ)があり、日本のトップ選手しか所属できない超名門チーム。
陸上関係者から見れば超エリート集団のひとつ。
当時のチームメイトは、室伏広治選手や末續慎吾選手などが在籍。そのほかの選手も全員がオリンピックや世界陸上に出場したことがある選手。チームが行う合宿や海外転戦にも帯同してトレーナー三昧の日々を過ごしていました。もちろん怪我も起きるので一緒に病院へいくこともありました。
日本代表チームのトレーナー
そして、私はこの2001年から日本代表選手団のトレーナーとして抜擢され、世界陸上(2001年〜)やオリンピック(アテネ、北京)などに継続的して帯同することことになりました。
2001年から2008年の北京オリンピックまでの8年間は、ミズノに所属しながら日本陸連のトレーナーとして代表チームの強化合宿、世界大会など主要な大会をチームトレーナーという立場で活動していました。
この代表チームのトレーナーは、所属先のミズノから派遣されるわけではなく、日本陸上競技連盟(通称:陸連)のトレーナー部で選出され、活動します。
代表チームは、毎年、国際大会があり世界陸上(2年に1回:陸連(NF)派遣)、アジア大会(4年に1回:JOC派遣)、アジア選手権(陸連(NF)派遣)、オリンピック(4年に1回開催:JOC派遣)を代表チームトレーナーとして活動しました。
初めて帯同した世界陸上。
2001年エドモントン世界陸上では、短距離種目で日本人で初めてメダルを取った為末大選手。2003年パリの世界陸上では末續選手が200mで銅メダルと世界大会でメダルと獲るという快挙にも関わることができました。
実は、初めて行ったアジア大会(1998年)は伊藤浩司選手が10秒00に日本記録を出した大会でした。
独立
2007年にミズノを退職し、TKC BODY DESIGN(TKC鍼灸マッサージ治療院)を立ち上げました。
開業後は一般の方々をたくさん診る機会となり、辛い痛みやなかなか症状が治らない方々をどうやって治すか。原因追求とその攻略を日々探究してきました。トップアスリートの対応だと選手自身の感覚的なことも考慮しながらやりとりをしていました。そもそも身体レベルが高い選手たちなので回復の感覚も鋭く一般の方々の対応とはちょっと違う要素が多かったように今は思います。
為末大選手の専属サポート
独立と同時に、為末大選手を個人的にサポートするパーソナルトレーナーとして活動が変わる。
当時パーソナルサポートとして活動するトレーナーはほとんど居ませんでした。このサポートは、今までミズノで行っていた活動をより個人に合わせてサポートするものでした。定期的な日々のケアから海外遠征帯同までをサポートしていまいた。
此処で得た知識と経験
人が動くことを追求し続けた選手の究極版だった。
世界一を本気で目指し、あと一歩のところまで来てていたアスリート。
人は、どうやって超高速で精確に動くには何が必要か。
どういう身体の使い方が理想的なのか。
そして、勝負で勝つには。。。
これを追い求める選手をリアルにサポートする良い機会でした。
アメフトに戻る
チームは、当時社会人リーグ(Xリーグ)の2部に所属。なかなか1部に上がれない状況が続いていました。チームの目標は明確で1部リーグで勝負できるチームを目指しており、強くなるにはメディカルの部分を強化しないと上に行ってもやっていけない(怪我で戦力を落とすことも良くあり。怪我対応と怪我予防の両方をサポートして欲しいと考えていたようです。
この話が来た時は、既に陸上競技(日本代表チームのサポート)からは退いていた為、二つ返事でチームに関わりました。そして、チームを取りまとめながら1部に昇格。その後、世界を揺るがした2020年の新型コロナ感染症。長いトレーナー人生でも初めての世界規模の感染症が起きました。
陸上の代表チームをサポートしていた16年の中でも、一度だけ海外遠征でSARS感染症の対策を経験しましたが、今回のような生活を一変するような事態ではありませんでした。
アメフトは60人を超える大所帯の団体競技。しかも社会人チームとなると職場も業種も様々な選手が集まっています。また企業がスポンサーのチームでしたでの感染症への配慮は、かなり厳しくそれを管理する体制を整えてコントロールすることは容易でありませんでした。基本的にはエビデンスデータ(根拠のある情報)をもとに医学的な背景をベース(チームドクターと密に連携して)に監督と情報を常に共有しながらチーム内ルールを作っていきました。そのお陰で私が関わった2022年まではチーム活動での感染者はゼロ。開催された試合もしっかり行いながら活動しました。
昭和大学で新たなチャレンジをスタート
2021年より始まった昭和大学でのリカレントカレッジ。一般の方々を対象に身体の正しい使い方や健康寿命を伸ばす運動などを指導しています。整形外科医と一緒に人が動く仕組みを伝えながら誰でも操れるようになれるように奮闘中です。
自分の身体を通して試行錯誤
実は、私の右足首は主要な靭帯がない(高2:完全断裂)不安定な状態。腰は腰椎の3番目が分離症(中学生で発症)。腰椎椎間板ヘルニア(L4-L5、L5-S1)30代発症。頚椎椎間板ヘルニア(C5-6)30代発症。椎間関節症、頸椎の彎曲も後弯気味と自分の身体も大きく変化。ある時は、何をしていても痛くてどうしようもないくらい辛い時期もあり、この先同じレベルでの仕事ができるのかと不安になったこともあります。年は毎年重ねていくので体力的な変化は30代とは違います。現在(50代)は、メンテナンス(治療を受ける。身体を動か)しながらうまく付き合えるように日々セルフケアをしています。
そんな実体験もある為、自分の身体を通してカラダの使い方や動かし方を日々試行錯誤しながら検証し、それを患者さまへフィードバックしています。
その他 コラムに関連する記事
選手にとってジョーカーの存在
と言われた事があります。正直 ???でした。一瞬 頭をよぎったのは トランプゲームのばば!?最強カード??
あれっ
それでは、辻褄があわないなぁ~と思いました。
こういった憶測は、その後...
アスレティックセラピスト
どんな人。
専門的なスポーツの知識(競技特性と怪我)と医学(怪我、応急処置など)の知識を...
テーピング選手権 2023
主催は、株式会社GOTOHARI
私は、審査員として関わらせていただきました。
この大会を開催する後藤勤氏
陸上の日本代表チームを一緒にサポートしていた戦友でもあります。
2005ヘルシンキ世界陸上、2007年大...